まちの豊かさが破壊されるとひとのWell-beingは失われる

こんにちは、森山です。
今回は
公共空間・まちづくりをみんなで分かち合うことができないことで、人の幸せや生活の基盤が壊れていく
ということについて、私が日頃から感じていることを見ていきたいと思います!

私たちの幸せと、公共空間との関係ですか?なんだか難しそう

めんどくさいしがらみ抜きに、自分らしく人生を生きたいと思うんですよね…
なるほど、そうですね。
豊かさや幸せと言っても、いろんな人の考え方があるかと思います。
そのようなご意見を踏まえつつ、
- 「まちづくり(公共を作り、整え、しまうこと)がなぜ重要なの」
- 「私たちが生きづらさを感じる時ってどんな時で、どのようにしてその状態を脱するの?」
そんな話をできるだけわかりやすく、簡潔に展開していきたいと思います。
最後まで読み進めていただけると嬉しいです。
まちの豊かさと私たちのWell-being

最近、場づくりやまちづくりに関わる中で、考え続けていることがあります。
- まちの在り方
- そこに生きる人のWell-being
この両者は想像をはるかに超える影響の大きさで、深く結びついているのではないかということです。
自分らしく笑顔でいられる場所があると?
あなたがいる場が居心地が良ければどうでしょう?
自分らしい発言が許されるのは当たり前。
毎日が笑顔に溢れるものであれば…。
おそらく、日々幸せを実感しながら、新しい挑戦ができてしまうかもしれませんよね?
ギスギスする場しかないと?
でも一方で、居心地を感じられない空間しかなければ?
- 少し空気が重くなる場
- 発言が減っていく場
- 人が距離を取り始める場
これらに心当たりはないですか?
このような「場」の在り方は、単なる雰囲気の問題とも言えないのではないでしょうか?
もっと根本的なものが損なわれている兆しのように感じます。
地理的な空間だけではない公共領域:まち
私はもともと福祉職・対人援助職として仕事をしていました。
その中で、「人を取り巻く環境に働きかけることの重要性」について考えることがたくさんありました。
そこで「まちづくり」に関わるようになっていくのですが、ここでいう「まち」とは、単なる地理的な空間のことだけを意味していません。
ここでは、「まちづくり」のことを、「まち(の人なら誰でも使える公共財)づくり」とします。
(ちなみにこの言葉は、谷亮治さんの「モテるまちづくり」から拝借しています。)
まちづくりという言葉を整理してみる

ここで、言葉を整理していきますね。
「公共財」とは、「非競合性あるいは非排除性の少なくとも一方を有する財」と定義されています。
経済学の用語ですね。
- 非競合性とは、「資源の奪い合いにならない度合い」のこと
- 非排除性とは、ざっくり「利用者を選ばない度合い」のこと
ちなみに、非競合性も非排他性も満たすのを「純粋公共財」と言います。
まちの人なら誰でも使える公共財を創り、育て、しまう
まちづくりは、
「まちの人なら誰でも使える財産を創り、育て、しまう営み」
谷亮治さんは「まちづくり」をこのように定義しています。
そして私はこの谷さんのお話を聞いて、本を読んで、さらに自分の実践の中からいろんなことを学びました。
そして、自分なりの実践をする中で、まちづくりは情報や機会、場そのものや関係性、意思決定のプロセスも含めた、共有されるべきもの全体を指すとも考えています。
公共・まちが歪んでいくプロセス
ではここまで整理した考えのもと、まちづくりが皆さんの手で育まれ続ければいいですよね?
でも、結果的には少しずつ歪んでいくことがあります。
本来、開かれているはずのものが閉じられ、一部の人の手に握られていく。
情報が共有されなくなり、関われる人が限定され、意思決定の過程も見えなくなっていく。
その結果、場は徐々に息苦しくなり、人は安心して関われなくなっていくことで、歪んでいくんです。
なぜまちは歪むのか?
なぜこのような歪みが生じるのでしょうか。
もちろん、いろんな理由があるかと思います。
もしかすると、背景に不安や恐れがある場合もあるように思うんです。
- 自分の立場が揺らぐのではないか
- 価値が認められなくなるのではないか
このように、「現状の自分にとって大切なもの」を失ってしまうことへの不安を感じてしまう。
そこから、排他的になったり、疑心暗鬼状態になってしまうことがあります。
そうした感覚が生まれると、人は無意識のうちにコントロールしようとしてしまうように思うんです。
本当はコントロールすべきではないことまで、制御権を握る。
このことで「自分を安心させよう」と思うわけですが、全体としては不信感につながることも…。
結果的に信頼を損ないまち・場の崩壊が始まる

しかし、その行為が信頼を損ない、共感や協力を遠ざけ、結果的に関係性を分断してしまう。
こうして、まちの豊かさは少しずつ失われていきます。
まちが失われるときWell-beingが損なわれる
まちの豊かさが失われるとき、何が起きるのでしょうか。
それは単に場がなくなるということではありません。
人と人とのあいだにあったつながりが薄れ、安心して存在できる感覚が失われ、自分らしくいられる余白がなくなっていくということです。
つまり、まちが失われることで、ひとのWell-beingそのものが損なわれていくのです。
家庭・職場・組織・チームでも…至る所で腐敗が始まる
この構造は、いわゆる「地域」でのみ起こるのかと言われると、そうではないように思います。
例えば、家庭の中でも、地域でも、組織でも、同じようなことが起きています。
共有されるべきものが握られ、関係性が閉じていくときに、人は孤立しやすくなり、苦しさが増していきます。
それは個人の問題というよりも、まちの問題と言えるのではないかと私は考えています。
人のWell-beingを育む公共空間を開き続けること

ここまでの話の中に、まちづくりの重要なポイントがギュッと詰まっているように思います。
まちづくりにおいて、
- イベントでの賑わいづくりも実施されること
- 場所を使いやすく整備すること
これらは大事だと思います。
ただ、本当に大切なことは、イベントにしても公共空間の整備にしても、プロセスや情報を開き、みんなの力で整え続けることではないかと思うんです。
まちづくりの考えは家庭や職場にも転用可能?
このまちづくりの考え方は、「家庭」「職場」「チーム」「組織」などでも展開していくことができるのではないか?
そんなふうにも思います。
もちろん役割や意思決定の範囲などは設計する必要があるかと思います。
ただ、誰でも関われる状態を保ち、情報を共有し、意思決定のプロセスも見える形にしていくことは大事。
構成員一人一人のことを考えて、主体性を奪わない関わりを積み重ねていくことが、人が幸せで豊かな場づくりにつながっていくと思うんです。
誰かの主体性を奪わないとはどういうことか?
私はまちの中で場を開き、みんなで役割分担をしながら主体性を育むための工夫をしています。
まちあいの森という場づくりをしていて、大事だと思うのが、すべてをコントロールしないことなんです。
意図的に余白を残し、関わる人が自分の意思で動けるようにする。
このような選択をすれば、一つ一つの意思決定に時間はかかりますし、非効率に感じることもあります。
ただ、その積み重ねが信頼を生み、関係性を育て、結果として持続するまちにつながっていくと実感しています。
屋久島の森のような調和と循環を大事にした場

私はこのようなまちづくり・場づくりをしていて、森のような在り方を思い浮かべることがあります。
森は誰か一人のものではなく、多様な存在が関わり合いながら成り立っていますよね?
もし強い力でコントロールしようとすれば、そのバランスは崩れてしまうと思うんです。
豊かさの中で新たな命が育まれる
一方で、それぞれの木々や花、動物が適切な距離で関わり、循環が保たれているとき、森は自然と豊かさを生み出します。
その森の中で、また新たな命が育まれていく。
実はまちも同じように育まれていくものだと思います。
私たちのまちをみんなで幸せ&豊かに
私たちは日々、さまざまな「人が集団で存在する場」に関わっています。
家庭で、職場で、地域で…。
その中で、自分は公共を開こうとしているのか、それとも無意識のうちに握ろうとしているのか。
その問いを持ち続けることが、まちを育てる一歩になるのではないでしょうか。
人の幸せについて考える時に、あえて「まち」を考える。
この「まち」が豊かに育つとき、ひとのWell-beingもまた、確かに育っていくのだと思います。
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