Well-beingと境界線|「私と私たち」の問題解決

  • 仕事をする。
  • 家族とコミュニケーションをとる。
  • お金を稼ぎ、お金を使う。
  • 誰かを助ける。あるいは、誰かに助けてもらう。

私たちが日々行っていることのほとんどは、自分だけで完結しているように見えても、実際には誰かとつながっています。

  • 自分で選んだ働き方が、家族との時間に影響する。
  • 自分が買ったものが、遠く離れた場所の労働や環境に関係する。
  • よかれと思って共有した情報が、誰かのプライバシーを傷つける。
  • 困っている人を助けようとした結果、その人が自分で決める機会を奪ってしまう。

このようなことを考えると、

  • 「私はどこまでが私なのか」
  • 「私の行動は、どこから私だけのことではなくなるのか」

ということが気になり始めてしまいます。

私は「社会福祉士」として障害福祉・介護福祉の現場で実践をしながら、まちづくりや地域のつながりづくり、場づくりなどに活動の軸を移しています。

オンラインでコミュニティを立ち上げ、地域の活動と連動させていく上で、自分と他者、個人と社会、プライベートとパブリックのあいだにある「境界線」について考えてきました。

このことについて一緒に見ていけたらと思っています。

私たちは日々「境界線」を引いている

境界線という言葉。

この言葉から、何を思い浮かべるでしょうか。(冷たいイメージでしょうか?それとも…)

自分を守り相手を責めないための「境界線」

私とあなたの間に「境界線」というものがあるのだとしたら、

  • 自分を守るための線
  • 相手に踏み込ませないための線
  • 自分の責任と、相手の責任を分ける線

というように、考えられるかもしれません。

なんらかの区切りは、私たちが安心して生きるために欠かせないともいえます。

意思決定や判断の基準

ここで、自分らしく生きるために「自分の意思で決定すること」について考えてみます。

例えば、生活の一場面で、

  • 仕事をどこまで引き受けるのか。
  • 家族の問題にどこまで関わるのか。
  • 誰に、どの情報まで伝えるのか。
  • 自分の時間やお金を、何に使うのか。

このようなことを「自分で意思決定する」ためには「自分」と「自分以外」について線を引くことが必要です。

この境界線を引くことができなければ、私たちは他者の期待や要求を際限なく引き受けることになります。

好意は義務に変わるでしょうし、どこまで誰が責任を背負うべきかも曖昧になって、社会は回っていかなくなるし、幸せとは程遠い状況が生まれそうな気もします。

境界線は「くっきり引くこと」が大事なの?

一方で、境界線を強く引けば、問題がすべて解決するわけでもありません。

  • 「それは本人の問題だから」
  • 「自分のお金をどう使おうと自由だ」
  • 「担当外なので関係ない」
  • 「家庭内のことだから、外から口を出すべきではない」

こうした「無関心」「無関係」で支え合いも助け合いも、高めあいも放棄するような境界線もありえます。

境界線は、個人の自由や自立を尊重するために引くこともできれば、ときには孤立や無関心を生み、不公平や暴力を見えなくすることもあるのでしょうね。

幸せに生きるための境界線の引き方や捉え方は難しい

私たちが社会生活を営む中で「幸せに生きたい」と誰もが思う。

その中で、

  • 境界線が曖昧すぎれば、干渉や支配が起こる。
  • 境界線が固すぎれば、孤立や分断が起こる。

では、私たちはどこに、どのような線を引けばよいのでしょうか。

「私」はどこまでを指すのか考えてみる

ではここから、もっと私たちの暮らしに根ざしたところで考えて見ましょう。

私たちは、自分の人生を自分で選ぶことができる自由な存在です。

けれども同時に、社会で誰かとの関係を持ちながら生活をします。

切っても切れない誰かとの関係性と「境界」

家族や友人、職場、地域、社会制度、自然環境。

私たちの誰もが、これらと無関係には生きていけません。

過去の人々がつくったものを受け取ります。

そして、まだ生まれていない人々に何かを残していきます。

完全に独立した「私」はありえない

そう考えると、「私」という存在を、他者から完全に切り離すことはできません。

もっと生活に根ざしたところで言うと、たとえば、働き方を選ぶのは自分です。

しかし、その選択によって、家族が掃除や洗濯をしてくれる状態が生まれているかもしれませんし、家庭も、会社も安定的に維持するために誰かが目に見えないところで多く仕事を担うことになるかもしれません。

お金は誰のもの?どのように捉えるべき?

ここから少し「お金」について考えます。

稼いだお金の使い方

稼いだお金は、自分のものと考えることができます。

しかし、収入を得るまでには、教育、交通、医療、法律、市場など、多くの社会的な基盤が関係しています。

お金の使い方と境界線

何を買うかは個人の自由です。

しかし、その商品がどこで、誰によって、どのような環境負荷のもとで作られたかを考えることも大事かもしれません。

もしかすると、環境に大きな負荷を与える方法で商品が作られているかもしれない。

安くて美味しいと思ってのでいるコーヒーは、安い賃金で現地の人から搾取するような形で買い叩いているものであれば、それでいいのでしょうか?

このように、消費は社会的な選択と考えることもできそうですね。

公共のためにお金を差し出さねばならない?

では、個人の選択をすべて「公共のため」に差し出さなければいけないのでしょうか?

このような「公共性」「全体のこと」を理由に、一人ひとりの自由や尊厳が犠牲になる危険もあるかもしれません。

「私のこと」と「私たちのこと」は、簡単には切り分けられません。

むしろ、そのあいだにある曖昧な領域を、どう扱うか。

それがWell-beingを考えるうえで大切なのではないでしょうか。

決める人と影響を受ける人

ではここから、さらに深掘って、「意思決定」について見ていきたいと思うのです。

先ほど見てきたお金の使い方なども一つの意思決定ですね。

境界線の問題がもっともはっきり現れるのは、「誰が決めるのか」を考える場面ではないかとも思うのです。

意思決定の主体は「誰」?影響の範囲は「どこまで」なの?

本人の人生については、本人が決める。

これは主体性を守るための重要な原則です。

周りの人が、本人の意思決定に不当に介入することは、よくないことだと私は考えています。

意思決定をした人だけの影響にはとどまらない

そして、決める人と影響を受ける人は、いつも同じとは限りません。

  • 政治家の意思決定が、市民に多大な影響を与える
  • 経営者が決めた方針によって、働く人やその家族が影響を受ける。
  • 親の選択によって、子どもの生活が変わる。
  • 地域の多数決によって、少数の人が暮らしにくくなる。
  • 現在の世代の決定によって、将来世代が負担を引き受ける。

声を受け止め対話できる場があるか?

ここで考えないといけないことがあるように思うのです。

  • 影響を受ける人は、その決定に参加できているでしょうか。
  • 参加できないとしても、意見を伝える機会はあるでしょうか。
  • 必要な情報を受け取り、異議を申し立て、後から決定を見直すことはできるでしょうか。

このように、「誰に決定権があるか」だけでなく、「誰に影響が及ぶか」を見ることも大事ではないでしょうか?

境界線を考えるときには、この二つを同時に捉える必要があります。

情報は誰のものなの?透明性と安心について

情報共有についても、考えるべき境界線がありそうです。

組織や政治の意思決定のなかでは、透明性が大切だと言われます。

情報が共有されなければ、一部の人だけが判断材料を持ち、ほかの人は決定から取り残されてしまうからです。

全ての情報は皆に公開されるわけではない

しかし、すべての情報を公開すればいいのでしょうか?

そういうわけでもなさそうです。

本人が打ち明けた悩みを、第三者へ共有することや、職場で知った情報をライバル企業に流出させることなどは、本人や職場にとって不利益を生じさせます。

情報の取り扱いは非常に難しく、善意や公共的な目的があったとしても、本人の尊厳やプライバシーを損なう可能性もあるわけです。

情報の取り扱いは注意が必要(信頼が大事)

「知っているほうがよい情報」と「知る必要がある情報」は、同じではありません。

  • 誰のために共有するのか。
  • 本人は納得しているか。
  • どこまで伝える必要があるか。
  • 誰がその情報を管理するのか。
  • 一度共有された情報を、後から取り戻せるのか。

情報を開くことと、守ること。

その両方が、信頼を構築し、それを維持するためには必要です。

主体性を尊重することと任せること

私はソーシャルワーカーとして支援やケアの場にいましたが、「支援」「教育」などにおいても、難しい「境界線」があるように思います。

支援も相談も教育も

誰かが困っているとき、私たちは「あなたの力になりたい」と思います。

しかし、先回りして決め、必要以上に手を出せば、本人が考え、選び、試す機会を奪ってしまうかもしれません。

「良かれ」と思って手を差し伸べることが、本人の主体性を奪ったり、強い介入は「支配」に変わることがあります。

本人の主体性を尊重し意思決定を支援するということ

反対に、「本人の意思を尊重する」という言葉によって、必要な支援まで手放してしまうこともあります。

自業自得だよと言わんばかりの境界線

本人に任せることを「全てあなたの責任で、自業自得だよ」と捉え、助けを求めている人を放置する状態になってしまってはいけません。

主体性を尊重することは、すべてを一人で背負わせることではありません。

支援をすることは代わりに決めることではない

支えることもまた、代わりにすべてを決めることではありません。

  • 本人が決める部分。
  • 周囲が支える部分。
  • 一緒に考える部分。
  • 組織や社会が保障する部分。

その境界線は、相手の状態や関係性、置かれている環境によって変わります。

必要なのは、最初から正しい線を知っていることではなく、相手とともに線を確かめ続ける姿勢なのかもしれません。

責任はどこに置かれているか?意思決定との関係

境界線は、責任のあり方にも関係します。

意思決定と責任と境界線

責任を明確にするため、一人の担当者を決めることがあります。それ自体は必要なことです。

しかし、十分な権限や情報を渡さないまま、その人だけに結果を負わせるなら、責任の押しつけになってしまいます。

みんなで責任を押し付け合うという状況

反対に、「みんなの責任」とすることで、誰も引き受けない状態が生まれることもあります。

  • 失敗したとき、どのように説明するのか。
  • 生じた損失を、誰が引き受けるのか。
  • 傷ついた関係を、誰が修復するのか。
  • そもそも、その人には選ぶ権限があったのか。

責任とは、単に「誰が悪いか」を決めることではありません。

  • 誰が決定する?
  • 誰が実行する?
  • 課題は?支えるのは誰?
  • 問題が生じた時の説明は?
  • 誰が修正や改善に関わるの?

こうした役割を確かめることが、挑戦できる環境をつくります。

失敗の責任を一人で背負わなければならない場所では、人は安心して試すことができません。

責任を曖昧にするのではなく、適切に分かち合えること。

それもまた、Well-beingを支える条件ではないでしょうか?

境界線は壁ではなく「関係のデザイン」

ここまで見てきたように、境界線というと、人と人を隔てる壁のように感じられるかもしれません。

でも、「壁」のようになってしまうと、分断が生まれて、孤立することによる苦しみを生んでしまうこともあります。

私とあなたの境界線が壁を作ることの内容に

「私たち」ということを考えてみる。

すると、「私」と「あなた」のそれぞれを「溶かさない」ことが大事だと思うのです。

そう考えたときに、境界線があることで、「私」と「あなた」の大切なものが守られるものもある。

その一方で境界線は関係を断つためのものではありません。

  • 自分の意思を伝えるため。
  • 相手の領域を尊重するため。
  • 誰が何を決めるのかを確かめるため。
  • 必要な情報を、必要な人と共有するため。
  • 責任や負担が、一人に偏らないようにするため。

一人ひとりが安心して関係を結ぶためのに何が必要かを考えることが大事ですね。

私とあなたの境界線を丁寧にメンテナンスし続けること

大切なのは、境界線があるか、ないかという二択ではなくて、

  • どこに線を引くのか。
  • 誰がその線を引くのか。
  • 線の内側と外側で、何が起きるのか。
  • その線によって、声を失う人はいないか。
  • 状況が変わったとき、線を引き直せるか。

ということ。

このように考えると、境界線とは、固定された答えではなく、対話を始めるために「どうメンテナンスしたらいいのか」を考え続けることが大事なのだと思います。

Well-beingは境界線の内側だけでは完結しない

ここまで見てきたように、自分を大切にすることは、Well-beingの出発点ではないかと私は考えています。

とはいえ、私たちは社会性を持った生き物ですので、自分の幸せだけを境界線の内側に囲い込むことはできません。

私たちの安心や自由は、ほかの人の仕事、ケア、理解、制度、環境によって支えられています。

みんなの幸せのために個人が我慢するWell-beingって?

同時に、「みんなの幸せ」のために、個人が我慢し続けることもWell-beingとは呼べないでしょう。

  • 私とあなた
  • 自分と社会
  • 自由と責任
  • プライベートとパブリック
  • 主体性とケア

どちらか一方を選ぶのではなく、そのあいだにある境界線を、ともに考え、試し、見直していくこと。

そこには、唯一の正解はありません。

だからこそ、これは「実験」「メンテナンス」のような形になると思っています。

境界線を引く&振り返って改善する

境界線について考えたとき、あなたが

  • 今、自分が守ろうとしているものは何でしょうか。
  • その判断によって、影響を受けるのは誰でしょうか。
  • 決定に参加できていない人はいないでしょうか。
  • 必要な情報は共有されているでしょうか。
  • 誰か一人に責任や負担が偏っていないでしょうか。
  • そして、その境界線は、これからも変えられるでしょうか。

私たちが引いている一本の線を、少し立ち止まって眺めてみる。

そこから、「私の幸せ」と「私たちの幸せ」をつなぐ、新しい「実験」「メンテナンス」が始まるのかもしれません。

投稿者プロフィール

Mocchy

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